大判例

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東京高等裁判所 平成6年(う)1291号 判決

本籍

東京都港区西麻布二丁目七五番地

住居

東京都世田谷区上北沢三丁目二五番一七号

クリーニング店従業員

神保浩子

昭和一九年一〇月五日生

右の者に対する所得税法違反被告事件について、平成六年九月一九日東京地方裁判所が言い渡した判決に対し、被告人から控訴の申立てがあったので、当裁判所は、検察官横田尤孝出席の上審理し、次のとおり判決する。

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人杉原哲太、同大島やよい連名の控訴趣意書に記載されたとおり(量刑不当の主張)であるから、これを引用する。

本件は、被告人の夫光宏が、被告人の代理人として、被告人所有の千葉県浦安市所在の土地の譲渡にかかる所得税を免れようと企て、売却に当たり買主との間にダミー会社を介在させ、右譲渡収入の一部を除外する方法により所得を秘匿した上、被告人の平成二年分の実際分離長期譲渡所得金額が二〇億〇九四九万四五〇三円であったのに、分離長期譲渡所得金額が一四億七二八八万〇八三八円で、これに対する所得税額が三億六六一三万二五〇〇円である旨の内容虚偽の所得税確定申告書を所轄税務署長に提出してそのまま法定納期限を従過させ、もって、不正の行為により同年分の正規の税額との差額一億三四一五万三五〇〇円の所得税を免れた、という事案である。

このように、本件は、代理人である夫が、取引や段階から所得秘匿のための工作をし、強固な逋脱の意思のもとに敢行したものであり、また、逋脱税額も単年分としては決して少額とはいえない。被告人は、納税義務者として両罰規定により刑事責任を問われているものであるが、夫に任せていたとはいっても土地の所有者、納税義務者として取引や確定申告の内容などについて相応の注意を払うべき立場にあったばかりか、現に被告人は取引の節目には自らも立会い、売主本人として各種重要書面に署名捺印するなどしているのであるから、所論にもかかわらず、夫による一連の不正工作に容易に気付き、ひいては本件脱税を防止することができたものと認められる。また、本件の逋脱本税及び附帯税は全く納付されておらず、三億六〇〇〇万円余りの申告所得税分についてもそのうち五一〇〇万円が納付されているに過ぎない。これらの事情からすれば被告人の刑事責任を軽視することができない。

そうすると、本件の逋脱税率が約二六・八パーセントにとどまること、国税当局によって差し押さえられている被告人所有の土地について、これを売却処分して納税に充てようと努力を続けていること、被告人は、原判決後、本件が原因となって夫と別居するに至り、経済的に一層苦しい状況にあること、被告人には前科前歴がないこと、その他被告人のために斟酌できる諸事情を十分に考慮しても、また、近時のこの種事犯に対する量刑の実情に照らしても、罰金額の上限について所得税法二三八条二項を適用の上、被告人を罰金二八〇〇万円(労役場留置は二五万円を一日に換算)に処した原判決の量刑は重過ぎて不当であるとはいえない。論旨は理由がない。

よって、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却することとして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 香城敏麿 裁判官 森眞樹 裁判官 中野久利)

控訴趣意書

被告人 神保浩子

右の者に対する所得税法違反被告事件(平成六年(う)第一二九一号)についての控訴の趣意は左記のとおりである。

平成七年一月二七日

右弁護士人 杉原哲太

同 大島やよい

東京高等裁判所第一刑事部 御中

原判決は、量刑において明らかに酷に失し不当であると思料されるので、その破棄を求める。

原判決はその量刑理由において、

1 被告人とエヌエスケーファイナンス株式会社(以下、NSKという)との間の売却承諾書及び被告人と日本ランド株式会社(以下、日本ランドという)間の仮装の売買契約書への被告人の各署名、NSKとの契約への立ち会いなどの事実を指摘して被告人において『契約書類の内容を確認するなどの注意を尽くせば被告人光宏の不正行為に気付くことができたと考えられる』こと、

2 ほ脱した税金はもとより、申告分の税金すら満足に納付されておらず、今後の納税の具体的見通しも立っていないこと、

3 この種事犯に対しては一般予防の必要性が高いこと、を述べたうえで被告人の刑事責任は軽視することができない

旨判示している。

しかしながら右判決の述べるところには多大の疑問を感ぜざるを得ない。

以下詳述する。

一 本件不動産売買の態様等について

原判決は日本ランドを単なるダミーとし、被告人と日本ランド間の契約も仮装のものとしている。事後的に事態をみればそのとおりである。

しかしながら、被告人の立場における本件売買に関する認識については、別途の観察を必要とする。

(一) 原判決は、本件において中間者を介在させたこと自体についてそもそも、被告人としては疑問を抱くべきであったというが如くである。しかし、元来不動産取引において本件の如く中間者を介在させる形態の売買事例は巷間まま見受けられるところであって、それ自体としてはなんら違法ではない。

本件においてもNSKは日本ランドの介在を諒承したうえで売却承諾書及び自社と日本ランド間の契約書に署名している。

しかして右売却承諾書並びに被告人と日本ランド間及び日本ランドとNSK間の各売買契約書のいずれも本来仮装乃至無効と言われるべき筋合のものではない。

(二) また原判決は、被告人の売却承諾書が日本ランドでなくNSKに宛てて差し入れられている点を挙げている。しかし、中間者を介在させる不動産取引においては、売却承諾書は物件の所有者から最終取得者に対して差し入れられるのが通常である。最終取得者としては代金決済のための資金手当(銀行借入れ等)、物件取得後の利用計画の立案等のため、中間者ではなく物件所有者の意思確認を必要とするからである。

従って、この点も格別異とするに足りない。

(三) また原判決は、被告人が日本ランドのみならずNSKの人物とも会同したことがあるという点を挙げている。しかし、このような取引形態においては代金決済の安全、確実を期するため当事者全員(本件に即して言えば被告人、日本ランド、NSK)が一堂に会するのは当然のことである。現に本件においても外観上は、全当事者会同のうえNSKと日本ランド間、日本ランドと被告人間のそれぞれにつき代金の交付・受領がなされている。

二 本件の実態

本件取引における問題の核心は被告人の代理人神保光宏(以下光宏という)と日本ランド代表取締役八十嶋勝一(以下勝一という)とが通謀・結託して、本来は日本ランドに帰属すべき売買益を光宏へ隠密裡に還流させている点にある。この段階において、日本ランドのダミー的性格は決定的となる。

仮にNSKが光宏と勝一間の通謀を承知していたとすればNSK・日本ランド間の契約書への署名は、被告人のそれと同様仮装の契約書の作成に関与したこととなる。被告人と同罪である。しかし本件においてはNSK、被告人の両名とも光宏・勝一間の通謀・結託の事実を知らなかったのであり、またこれを事前に察知することは事実上困難である。NSKが被告人及び日本ランドの両名から確約書を徴収したのはまさにこのためである。しかも光宏・勝一間の右通謀・偽装工作はもっぱら被告人を欺瞞することを目的としていたのである。

三 本件取引に際しての被告人の立場等

(一) 被告人はありふれた通常の一主婦に過ぎない。日常の生活品の購入ならばいざ知らず不動産の取引のごとき相当程度専門的知識を要求される事務処理に不慣れであるのは当然のことである。他方、光宏は被告人の夫たるのみならず、一般のサラリーマンと異なり、零細ながら事業経営者であって宅地開発・分譲会社経営のキャリアも持つ不動産取引のプロである。かかる状況下において被告人が本件取引につき全面的に光宏にその事務処理を委任することは社会通念に照らしむしろ自然の成り行きであろう。検察官はその論告において『被告人の態度は無責任極まりなく』などと声高らかに論難しているが、右は社会生活の実状を無視し、専ら自己の職業意識以外念頭にない検事室における机上の作文にすぎない。

(二) 被告人の平成六年一月二八日付検察官調書によれば、被告人は日本ランドとの契約書への署名に際し、『不動産取引では不動産会社が買主になることがあるのかな。八十嶋さんにお金をやるために契約書上だけ日本ランドの名前を載せることもあるのかな』と思った旨供述している。この供述は不動産取引などに疎い一主婦の感想としてごく自然である。

(三) 一般に不動産取引において作成される関係書類においては専門的用語・文体が使用されることが多く不慣れな者には分りにくいものである。また取引関与者の立場等についても仲介者、代理人、当事者等の差異につき正確な知識を未経験の一主婦に期待することは酷というべきである。まして本件では不動産取引のプロである夫が全てお膳立てをしていたのであるから、被告人としては関係書類につき特に疑念を抱くこともなく夫の指示するところに従ったとしても、格別非難されるべき筋合いのものでもない。

四 原判決は『注意を尽くせば被告人光宏の不正行為に気付くことができたと考えられる』と安易に片付け一件落着としているかの如くであるが、これまで詳述せるとおり、本件における不動産取引の態様、被告人の立場等を勘案すれば、『不正行為に気付く』ことは原判決が判示するほど容易なものとは言えないのである。

五 原審裁判官の志向について

(一) 原判決は被告人にたいする量刑にあたり、本件における最大の被害者は、『税金を取り損なった』国ではなく被告人自身であるという視点が全く欠落している。

本件の実態は、本人からその所有不動産の売却事務の委任を受けた光宏が売却価格を偽って同人の受領した事実の売却代金との差額約五億円相当額を着服横領したというに尽きる。

仮に光宏以外の者が代理人であれば、被告人は当然告訴手続に及ぶべきところである。右の如き巨額の着服横領の刑事責任は極めて重大である。

被告人の被害は右のみに止まらない。真実の売却代金二三億円余から着服横領された五億円余及び銀行借入の返済金一一億六〇〇〇万円を控除した残額六億四〇〇〇万円相当分も光宏によって費消されている。

被告人が父から相続した巨額の遺産は光宏によってまたたく間にしゃぶり尽くされたのである。刑事告訴はともかく、少なくとも離婚事件に及ぶべき事態である。

(二) 然るに原審は国家財政における収入確保の必要性を強調するの一点ばりである。

被告人の刑責を論ずるにあたり、ほ脱分のみならず申告分の税金の不完納をとりあげているのもその表れであり、一般予防の必要性というもその実体は税収入の確保という行政目的の強調に外ならない。

(三) 右の如き志向の赴くところ、原判決は被告人に対する量刑にあたり敢えて所得税法二三八条中二項を適用して処断するに至っている。

同条二項は、ほ脱税額が五百万円を超える場合においても一項の法定刑によることを原則としながらも、「情状により」法定刑の上限をほ脱税額としたものである。その趣意は行為者の有責性の程度に着眼したものに他ならない。本件において被告人の刑責は同法二四四条の両罰規定によるものである。

被告人には脱税の故意はもとより、脱税による利得も皆無である。にも拘らず原判決が被告人に対し敢えて二項を適用するに及んだ「情状」とはそのいかなる事情を指しているのであるか。殆ど不可解というの外はない。

(四) 原判決は被告人に有利な情状として

Ⅰ ほ脱率が低いこと

Ⅱ 被告人の財産に対する国税当局の差押え

を挙げているが、これ又税収確保の志向性をあらわに示すものである。

(五) 被告人は所得税法二三八条二項により処断された。現在の被告人の経済的窮状からすれば原判決の宣告刑では換刑処分として労役場留置を余儀なくされるは必定である。前科前歴もなく、平凡な一主婦として生活してきた被告人にとりその受刑感覚は労役場留置も懲役刑の執行も実質的になんら異なるところはない。

他方、本件において不正行為に及んだ光宏は懲役一年二月ながら執行猶予付きである。同人により法的にも経済的にも破滅的事態に追い込まれた被告人は獄窓に泣き、実行犯たる光宏は実質的にみて制裁による痛痒は無きに等しい。これはそも如何なる次第であるか。

六 結語

専ら国家財政における税収入確保の必要性を強調する原判決の過酷なる量刑は到底一般の国民感情を納得させ得るものではない。原判決の破棄を求める所以である。

以上

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